子どもに質問されたら、なんでも一緒に考えて、答えてあげられる親になりたい
もりー (@morymolly247↗︎)です^ - ^
2018年は「真面目に正しく生きる」と決め。
2019年は「自分が正しいと思ったことを選択する」でした。
でも、正しさの判定基準は難しい。
誰にとっての正しさなのか、常識や普通は、誰のものなのか。
この問題にたどり着ける時はいつか来るのか・・。
難しいものです。
むじゅい。はぁ〜〜〜〜。
あ、先日4年ぶりに再開した先輩と啓発チックなお話をしました。
“幼少期に隠されている真実”的な話をしたら、自分の幼少期のことを深掘りしたくなり、母に幼少期のことを教えてくれと言ったら、「育児日記」を初めて見せてもらいました。
母は24歳で私を産んでいて、私も来年で24歳になるからなんだか不思議な気持ち。。
私は母のように若くで産んで子どもなんて育てられるだろうか。
友人たちが子どもを産んでいるのを見て、同じ学生生活をしてきた子たちがこんなにも母になっていて、母性を持っていて、不安になる。私も彼女たちのような母になれるのかと。
私は日記が大好きなのですが、母も日記を書いていて、記録になるような写真やメモがたくさん出てきて「(もしや遺伝・・?)」とか思っちゃいました。
そして、何よりもびっくりしたのが、私が小さい頃からかなりのおばあちゃん子だということが発覚。
私はかなり今でも祖母のことが大好きではあるけれど、私がおばあちゃん子すぎて母が寂しくなってしまうほどに懐いているとは今の今まで、知りませんでした。
確かに、おばあちゃんに何かあったら私はなんでもしてあげたいし、おばあちゃんのためならなんでもできる。介護も。
おばあちゃんがなぜこんなにも大好きなのかは正直わからないけれど、絶対的な信頼が今も変わらずにある。
長女は生きにくいのかもしれないに、敬老の日の話を今読み返してみたけど、おばあちゃん好きすぎかよ! と突っ込んでしまった。大人気なさすぎ。。
そこで思ったんです。
よく「親の死に目に会えねぇと思え!」みたいな言葉を聞くけど、死に目に会えないほど大切なことってあるのかな、と。
親の死に目に会えないって、すごいことを言っている。
お金より、命のが比べ物にならないほどに大切で。
死に目に会えないほどの大切なことってなに?
死んだら終わりだから? 本当に?
大切な人の命より大事なものなんてないと思いました。
ホワイト企業でも、この気持ちがわかってくれなかったらブラック企業だ。
甘いのかな。そんなことないよね。
もし何があっても、自分の正しさだけは見失わないようにしようと思えました。
そして、誰ひとり残らず、大切な人たちは死んでほしくないなと悲しくなった。
映画、タイタニックをまた観たからかもしれない。
タイタニックのことは、また記事にするからモラリーを見てくださいな。
チッ
これだから寒い季節は嫌いだぜ。
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